時間のない世界
知らない国をひとりで旅行するのが好きで、ハタチそこそこから東南アジアや南アジアに1週間から数ヶ月という単位で滞在していた。
観光にはそんなに興味がなくて、どちらかというと、その道中のローカル食堂で地元の男たちが自分の注文したものはとうの昔にたいらげてしまったあとに延々と無料のジャスミンティーを飲みながら煙草をくゆらせておしゃべりを続けている中に混ざってコンデンスミルク入りのミルクティーを飲んだり、もう何度も読み返してボロボロになった本をなんとなく眺めてみたり、そんなあまり意味のないような時間が好きだった。
精神的に不安定になってからも、回復期には何度も旅をした。
いま思うと心配だったろうに、送り出してくれた両親には本当に感謝している。
(私が言い出したら聞かず、家出してでも行く性分というのを理解していた、というのもあるが。当時の心療内科の主治医が、若い頃はアフリカを旅していたこともあって、大いに賛成してくれていたというのも大きかったのかもしれない。)
そのころの私にとって、旅行はリハビリ、あるいはセラピーだったのだなと、今になって思う。
なにもすべきことはなく、考えるべきことはなく、他の旅行者や地元の人と親しくなることもあるにはあったが、関わりがいやだったら別の町に行けばいいだけのこと。
不安感が襲ってくることもあったけれど、この旅の期間なにひとつ心配することなどないということは理解していたため、その不安がいかに不毛な物であるかも明らかだった。
昨日のことはもうどうでもよく、明日のことは、せいぜいひとつかふたつ、やることを考えるぐらい。(それも、あしたのお昼はここで食べよう!とか、そんな程度。)
私はなにものでもなくて、なにものにも縛られず、ただそこにいるだけで良かった。
ただ「ある」ってこと、ただ「存在してる」ってことが、私を癒してくれた。
そんな旅の途中に出会った人と結婚し、京都に住むことになってからも、しばらくはそんな日々が恋しくて仕方なかった。
けれど同時に、そろそろ、どんな場所でも日々穏やかに過ごせるようになること、あれやこれやの心配事から自分の意志で離れられるようになることが大切なのだとも感じはじめていた。
毎日を、旅をしていたころのように生きる、というのがひとつの目標になった。
今ここでは何も起きていなくて、目を向ければ安らぎは自分の中にいつもある。
そうしてそれは気がつけば、自分の中の当たり前となっていったのだなと思う。
国内外からの観光客でごった返す京都の街を歩きながら、そんなことをふと思い出した次第。
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